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隣の座席に放り投げたスマホの画面が点灯し、メッセージアプリの通知が届いた。日和がEdenのSNSアカウントを更新した旨の発言に、茨からの謝辞が間髪なく入ったのを少し焦った気持ちで眺める。
季節は春。ジュンの乗った車は、玲明学園に向かっている。

陽も傾き、人の気配がすっかりなくなった校舎の廊下を小走りする。最近はEdenでの仕事が増えたことで学外での活動が増えていた。そのおかげで訪れる機会は減っていたものの、何度となく通った教室へ急ぐ。先輩と後輩、そしてユニットメンバーである間柄にしたって多すぎる呼び出しに苛立ちながらも、何度も通った教室だ。

探した人は、少し暗くなった教室の中で、中庭に向いた窓から見える、すでに花は散りかけて葉ばかりになった桜の木を眺めていた。いつもの名前を呼ぶとこちらを一瞥もせずに、待ちくたびれたね、といつもの調子で言う。
「あの、式、間に合わなくてすんません」
「別に、ジュンくんが居なくても問題はなかったね」
きみが送辞をするのだったら大問題だけれど、そう言ってやっと、こちらの方を向いた。何も変わらない、いつもと同じ表情で、ぼくがいなくてもちゃんとお仕事できた?そうでなければぼくのパートナー失格だね、そう笑いながら。
あまりにもいつもと変わらない光景に、鼻の奥が静かに痛んだ。目をまっすぐに見つめられたくなくて、視線を落として机の上で綺麗に重ねられたかれの両手を見つめた。なんでも聡いかれにはすでに気づかれているだろうと思ったが、それ以外の誤魔化し方が思い浮かばなかった。
「ありがとうございました」
「なあに、お別れみたいに言うね」
「そりゃ違いますけど、」
そこまで言って喉が詰まって、視界が滲んで、スニーカーのつま先に染みができた。移動の車で制服に着替えたのに、最後に時間を気にして革靴を履いてこれなかったことが急に悔しくて、涙がこぼれ落ちて止まらなかった。こんなにわかりやすく泣いていても声を上げるのはまだプライドが許さなくて、鼻を啜りながら声を出さないようにしゃくりあげた。
しばらくして呆れたようなため息が聞こえて咄嗟に袖で顔を拭おうとすると、日和の手がそれを許さなかった。「ダメ、」そう言ってカバンから上等そうなハンカチを取り出しジュンの両頬に押しつけて、最後にそれを鼻に添えて言った。
「ほらチーンてして」
「なんて莫迦を言ってるんですか、しませんよ」
「これ、声楽の先生がぼくにさっき個人的にくれたやつなの」
思わなかった言葉に逡巡して、鼻に当てられたままだったハンカチを手に取った。
「なんだか急に鼻水が止まらなくなったので、これ、もらってもいいですか」
二年前の春、授業中にジュンの声を揶揄して、一年前の秋、日和にセクハラまがいの接触を試みた教員からの布切れで思う存分鼻をかみ、後でどこか知らない公園のごみ箱にでも捨ててやるつもりで滅茶苦茶に畳んで自分のポケットにしまった。あとで二人で燃やそうと提案するつもりだったと日和は軽やかに言い捨てて、ジュンの顔を見つめた。
「ね、きみならもう、だいじょうぶ」

「巴先輩に会えて、オレは幸せでした」
目の前のかれは擽ったそうに声をあげて笑う。慣れない呼び名を口にしたせいで、顔に血が集まるのを感じながら、構わずに続けた。
「本当に感謝してるんですよ、迷惑、かけられてばかりでしたけど」
卒業式の日からすぐに星奏館へ移るのだという日和の荷物が、日に日に部屋から減っていくのが心細かった。あんなに邪魔だと思っていた大量の服や紅茶の缶が在った場所が空になり、どうしようもなく苦しくなった。日和のいた跡を上書きしたくなくて、空けたままの空間が目に入る度、余計に居なくなることを意識した。
「迷惑だなんて思うはずがないね、先輩の有り難い指導だよね」
この学園に入ってから逃れられなかった同級や上級からの視線、重圧を意識する間もないほど、忙しかった。いつ実を結ぶのか途方もなかった授業が、実益を兼ねた練習の場となった。傍目から見てうだつの上がらない成績に陰口を叩かれながら教室の隅で息を潜めた業間休みも、日和からのメッセージ1つで走り回れば、短すぎるくらいだった。
「実は、尊敬してます」
歯に衣着せぬ物言いに、舌打ちをして暴言を吐きながらも、言い返せないのが事実だった。いつでもミュージカルを踊りだしそうな声音で笑うのに、アイドルであることには誰より厳しくて、それでいて手を抜かずにやり遂げる人間に、憎まれ口を叩きながらも一目置かずにはいられなかった。
「知ってる、ジュンくん、ぼくのこと大好きでしょう」
あの日からそうだった。自分の父親や佐賀美陣、凪先輩、茨、他に尊敬している誰を差し置いても、「おひいさん」のことが一番だった。この人の隣に立っていられるなら、ほんの少し、自分の存在に価値があると思えた。そんなことを言ったらまた、卑屈だの当然だの色々と言われそうだから、言わない。代わりにやっと、今日一番言いたかった言葉を伝える。
「卒業おめでとうございます、おひいさん」
なんだ、戻っちゃってつまんないの!、言葉とは裏腹に嬉しそうな声を上げて、ジュンの顔を自分の前に引き寄せた。久しぶりに至近距離で見るかれの顔は、頬が上気してほんのり赤かった。ライブのときとは違う甘ったるい笑顔に、また少し泣きたくなった。
「じゃあジュンくん、ジュンくんをしあわせにしてあげたぼくに報いるために、ぼくを一生かけてしあわせにしてね」
オレの負担が重すぎやしませんか、と眉を顰めると、それくらいで丁度いいんだよ、ジュンくんは、と唇を重ねられた。