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大きい窓のある部屋には、たっぷりと太陽光が差していた。部屋の主は布団と毛布を無意識に手繰り寄せて、何もすることのない休日に貪る眠りを満喫している最中だ。時折目を覚ましては、窓の向こうに広がる青空と遠くに動く飛行機かなにかを眺めてすぐに眠りに落ちる。かれは、こうして無為に過ごす一日が好きだった。誰に怠惰だ不健康だと言われようとも、こうしていることが一番自然で、自分にぴったりしているように思えた。普段から一切の運動をしないわけでは無いのだ。放っておいてほしい。
むかしからそうだった。顕著になったのは、親の監視下を外れてひとりで生活をするようになってからだ。むかしはいくらそれが好きでも、食事時には急かされるし、学校が終われば課題に追われて進捗を聞かれるのでは、落ち着いて転がっていることなんてなかなかできなかった。家族が嫌いなわけでもなければ、勉強も好きだった。出不精なわけでもなかった。誘われれば食事に行って、うるさいクラブで身体を揺らし、そこで出会った誰かと腹がよじれるほど笑いあっても、ふとある時に、まるで連絡が取れなくなる。やっと連絡を返す頃には相手も諦めており、こちらからの言葉に返事が来ることはなかった。この、自分にとっては魂の救済のような行為を理解してくれる人はほとんどいなかった。
こういったことを繰り返すうちに、周りとはなんとなく距離ができていた。不名誉な噂もいくつか耳にしたが、あまり実害もなかったので放っておいた。
今回、何日こうしていたかはっきりとは覚えていない。大体長くても三日程度だし、用事があるときはアラームをかけているので問題ないはずだ。身体を起こす気になったので、布団から抜け出して単身用の狭いキッチンで水を飲んだ。まだ日が高いので散歩に行くことを考えて冷蔵庫を覗く。うん、引っ越し前かと思うほどに何も入っていない。調味料が少しと、賞味期限の切れた牛乳が少し。ついでに買い物に行くことも決めて、やっとスマホを手に取った。親からの連絡が一つ。あとは学生時代に一度遊んだだけの人の結婚式の招待と、見覚えのない人からのメッセージがあった。
「誰だっけ、」
素っ気ない文面だった。自分の名前と、要件だけが簡潔に書かれていた。
「できるなら連絡をくれ、できないなら構わん」
なんとも高圧的にも取れる言葉で締められた、仕事の依頼だった。どこで知り合ったかは思い出せないままだったが、言い方はともかく逃げ道を用意する優しさに好感が持ててメッセージを返した。その連絡は2日前の夜に送られてきたものだった。返事は期待していなかったが、着替えて靴を履いた頃に通知が届いた。
「助かる。詳細に話をしたいので会える日を教えてくれ」
すぐに、明日の昼過ぎはどうか、と送った。それに了承の返事が来て、会話は終わってしまった。仕事の相手だし、顔も声もわからないが、なんとなく楽しみな予定になってつい笑顔になる。そろそろ季節は春になる。

待ち合わせに指定されたカフェは家から数駅離れたビジネス街の一角にあった。歩道に面したテラスからカフェの中を見通してみると、一人に自然と目が行く。特に目立つ格好をしているわけでもなく、強いて言うなら他にカフェにいる人たちと比べて随分と不機嫌そうに見えるというくらいだが、何故か、あの人が約束の人だという自信があった。その顔にやはり見覚えは無かったが、かれは、懐かしく、昔からの馴染みのような、記憶のなかの小さな隙間にぴったりと嵌るような、心の中で霞んでいたなにかが形を得たような、そんな人だった。スーツはなんだからしくないなあ、かっちりとした服じゃなくて、きみは、もう少しゆったりとしているものの方が似合うのに、きっと。ポケットに突っ込んでいたスマホを取り出して、スーツ着てます?とメッセージすると、視線の先の彼がスマホを見てから、ゆっくりとこちらを向いた。ほら、やっぱりきみだ。

「ふふ、こんにちは」
「…どうも。なんで笑うんだ」
「ただの挨拶ですよ、すみませんわたしいつもこんな感じなので」
「そうか、」
飲み物を買ったあとに名刺交換をした。あまり聞いたことのない会社の、営業とかでもなく、よくわからない肩書の人だった。その後は事務的に案件の要項と条件の話を進めて、小一時間経ったあたりで問題なさそうなので契約、という話にすんなりまとまった。
「では、契約書は電子なのでメールに送る」
「よろしくおねがいします」
いくらカフェでカジュアルにといっても、仕事の絡む話は多少なり気を遣う。息をついて、向かいの彼が説明に使ったタブレットをカバンにしまうのを見届けてから、ずっと気になっていたことを訊くことにした。
「あの、どこでわたしのことを知ったんでしょう」
「…まさか、今までそれをわからずに話を聞いて、挙げ句に契約すると?」
「ええ、まあ、」
ハア、と、さっき自分がこぼしたものよりよっぽど大きいため息をつき、肩を大げさに落として、彼は額に手を当てている。すごいこれ、『クソでかため息』ってやつだ、と思ったらおかしくなって肩を揺らして笑ってしまう。失礼かな、でも、仮にも自分は初めて会った仕事相手なのに、クソでかため息をついてしまった彼の方が先に悪い。
「あのな、私が仮に人身売買の商人だったらどうするんだ、もしかしたらお前は今ごろ全ての臓器を抜かれて近くの臭くて汚い湾にゴミと一緒に捨てられてたかもしれんぞ、コンクリートで固められて」
臭くて汚い、をひときわ強調しながら彼はやけに芝居がかった口調で言った。仕事の話をしているときは淡々としていたが、言葉にずいぶん抑揚をつける癖があるようだ。この人、舞台芝居が好きなのかもしれない。
「もしかしてわたし売られちゃう?今どきの臓器売買って、電子契約なの?」
「知らん!」
バカなのか、とこちらを見つめる視線が語ってる。可哀想に、今さっき、そんなおバカさんと業務契約することを約束してしまったきみ。会社で怒られないといいけれど。
「じゃあここでやっぱりやめると言っても?」
「それは困るな」
「やっぱりあなた、怖い人かな」
「気をつけろと言ってるんだ…あいつの紹介だよ、話が行ってるもんだと思っていたが、お前もなにも言わないから」
あいつって?と訊くと、彼の口からはたった一人の友人の名前が飛び出してきた。人付き合いが誰よりも下手な私を諦めなかった、唯一の人。そして知り合いの中で唯一、家に招いたことがある人だった。というより、その時は彼が押しかけてきたに近い。そこから彼はわたしの領域に踏み込んでくれるただ一人の存在になった。その友人と目の前の彼は同じ職場らしい。
「それなら本当に問題ないや、あの子のことだもの」
「私が臓器の商人でも?」
「あの子に売り渡されたっていうなら、まあいいかな」
「あいつはそんなことしない、」
「きみが言ったのに」

「まあとにかく、この後に連絡するからそのメールはすぐに確認して返事をしろ、毎回2日も待たせるなよ」
「もちろん。ちゃんとするよ」
「電話も出られるようにしてくれ、」
「かかってくることあるの?」
「仕事のことでだ!進捗確認なり必要だろう」
ふと、今はどうしているかも知らない人たちに言われたことを思い出した。心配するから返事はしろ、たかが一言返すだけじゃないか、などなど、自分なりに期待に沿う努力はしたつもりだったが、結局のところあの時間になると、他のことまで考えていられなかった。ただ、急いて生きることが良いことと思えないだけなのに。
「わたし、休むんだけど」
「なに、休まず馬車馬のように働けと言ってるように聞こえたか?」
「そうじゃなくて、」
「じゃ、なんだ」
口に出してから、わざわざ言う必要もなかったと後悔した。業務外に連絡が取れなくなるなんて、最近じゃ普通の話だ。それなのに、彼には誤解をされてほしくなかった。
「お仕事はちゃんとします、でも仕事じゃない時は多分めったに出られない。わたし、まめじゃなくて、起きててもぼうっとしてるのが好きというか」
「ふむ」
それきり黙った彼は、目を伏せて指で顎を撫でている。髭はきれいに剃られてあるようで、肌も綺麗だった。案外身なりに気を遣っているらしい、と勝手に思考が逸れていく。
「なあ、これは雑談だよな」
「そうなるのかな」
「仕事は、やるんだな?」
「もちろん」
「あいつの紹介で、本人も仕事をやり遂げると言ってる、業務外の時間に連絡に出られないくらいなんでもないだろう」
「…そうかな」
「さっきはああ言ったが、そもそも2日待って困るような連絡なんてお前には回さん、契約書の件だけ早く返事をしろ、納期は守れ、それだけだ。いいな」
そう言って彼は腕を組んだ。
「私は、仕事はきちんとやる。」
「ふふふ、はい」
「でも、私は寝るのが趣味なんだ、休日にたっぷり寝るのが」
寝るのが趣味なくせに、随分と隈が濃いのは生まれつきなのだろうか、それとも仕事の方が真っ黒なやつなのだろうか。という疑問は心のなかにとどめておいた。きっとこの人は、言ったように仕事はきっちりとするのだろう、周りがよく見えてしまう分やきもきして、余分に世話を焼きながら。きっと、彼は友人にどこか似ている。
「それを邪魔されたくない気持ちは、わかる。厭に疲れるからな、この社会は」
彼はそのままカップに残ったコーヒーを啜る。返事は求められていないようだった。嬉しいのと、少し泣きたい気持ちになりながら彼に微笑み返した。まあ、彼は笑っていなかったが。一番最初に見たときのまま、不機嫌そうな表情を顔に貼り付けていた。
「喋りすぎた。おまえ営業に向いてるんじゃないか」
「まさか、まめじゃないって言ったばかりでしょう」
「まあ、なんだ。もしお前側のミスが見つかってお前に連絡が取れなくなったら、地の果てまで追いかけるからな、覚悟しておけ」
「それは怖いなあ」
肩をすくめて返事をすると、ではまた、そう言って彼は立ち上がり、返却台でトレーのごみをきっちり分別して店を出る。テラスの外側を歩く彼を、所作もきれいなのにずいぶん猫背でもったいないな、と目を細めて見送った。

私と彼は、きっと友達になる。