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遠く、二階の方から情けない声とともにばたばたと、うつくしくない足音が聴こえる。よく晴れた静かな朝に似つかわしくないその慌ただしい音は、まっすぐ、時々なにかを廊下に落としながら、この部屋へと向かっている。
「お師さんおはよぉ、マド姉ェもおはよぉ」
台所に立つ母に挨拶したあとで、席に着きながら僕の脇に座るマドモアゼルへも声をかける。
「きみ、顔は洗ったよね」
母から受け取った少し黒いトーストに、足りないんじゃないかと思うほど小さく切り取ったバターを器用に薄く塗り伸ばしながら、影片は一度、きょとんとした顔をこちらに向けた。
「もちろん、あと、ちゃんとうがいして歯も磨いたで!」
そして今度はまるで偉業を達成したかのように胸を張って、彼は笑う。人間として当然のことなのだから威張るようなことでもないのだけれど。それはよかった、とだけ返して紅茶のカップを手に取る。人が、とくに僕がいいつけたことは守るように努力しているらしい彼は、こちらが訊いたことに「うん」と返事できることがどうにもいっとう誇らしいと思っている節があった。起きた後に成し遂げた、本当であれば取るに足らないことをひとしきり列挙した後、何かを思い出したように、あ、と零してから続けた。
「あんな、今日おれ、練習のあとアルバイトがあるから、遅くなります」
「何時」
「うーん、よぉ書いてへんかったんよ、たぶん夜の八時くらいには終わるんちゃうかな」
「なんだってきみ、労働内容がきちんとしてない仕事をいつも選ぶんだい」
言われた彼は、こちらの責めるような口ぶりに、んああ、と肩をすくめて申し訳無さそうな様子でそのままトーストを齧っていた。言い訳も出ないらしいが、直す気もあまりなさそうだ。夢ノ咲の校内バイトは、ある程度は生徒会が管理しているようで、然るべき機関に見つかったらこの学校の立場が危うくなる、というほどのものは無いように見えた。ただし、あくまで「ある程度」であり、生徒会や職員が把握しきれない範囲で、過重労働では、と思わせるようなものもある。もちろんそればかりでは無いだろうが、どうにもこの目の前でへらへらとパンを牛乳で飲み下している、「おっちょこちょい」という間の抜けた言葉の擬人化であるような彼は、そういったはずれくじを引いていることが多いように感じる。
「まあいいけど、あと少しで出るよ」
「おん!」
返事かどうかもわからない音を返して、彼は急いでサラダとヨーグルトを詰め込んでいた。

放課後、二時間きっかりの練習を終えた影片は、ジャージ姿のまま校内アルバイトへ駆けていった。あと五分しかあらへん、また後でな、と鞄と脱いだ制服とを引っ掴み、室内履きのかかとを潰して練習室を飛び出した。
「影片!靴はきちんと履くのだよ!そして姿勢が悪い!」
ふと見た後ろ姿があまりにもみっともないので、練習室の出口から半身を出して廊下に向かって怒鳴りかけた。すでに通路の角を曲がるところだった彼はその場で小さく飛び跳ねてから、靴を整えて、背中をぴんと張って、こちらに大きく笑って手を振り、校舎の向こうへ消えていった。「みかちゃん、慌ただしいわねぇ」と、この場にはいない子の声が聞こえるようだった。

仮にも師と呼ぶ人間に、片付けをすべて押し付けていってしまうのはどうなのか。一人でそんなことを考えながら、練習室を片付ける。窓と扉を開け放して、床を掃き、備品を元の位置に戻す。決められたことを完遂するのが好きだった。他人から文句を言わせないために、言ったことを、言った以上に努力した。それでも彼らが自分たちに悪態をつくのは、嫉妬や負け惜しみからだと知っていた。だからこそ、何故あのとき、僕は負けなければならなかったのか…。
「あの…」
出入り口から弱々しい声が掛けられる。そこには、いかにも恐縮した風の生徒が三人固まってこちらを見ていた。時計を確認すると、部屋の使用時間を二分過ぎていた。もう夜にも近いこの時間、彼らも時間が惜しいだろう。
「僕としたことがすまないね、片付けは終わっているからすぐに出よう」
練習着と鞄を持って、部屋を出る。できるだけいい姿勢のまま、慌てることもなく歩く。入れ替わりで練習室に入った生徒が閉じた扉の向こうで、Valkyrieだ、斎宮宗だ、と話しているのが微かに聞こえた。まだ僕を憶えている連中は居るらしい。もう痛むことのないと思っていた自尊心が、僅かに疼くのを感じた。今ここにいないマドモアゼルは、鍵をかけた部室に残してきている。迎えに行くために、一人、手芸部室へと向かった。

マドモアゼルを連れて、真っ直ぐに帰宅する。影片はどうせ遅くなるのだし、どこでのアルバイトかもわからない以上、校舎に残っている理由は無かった。急ぎで仕上げるべき衣装の依頼も無い。少し怪しい雲行きだから、早く家に帰りたかった。家の扉を開けて帰宅を告げても、家族はみんな外出しているようだ。しかし今日みたいな日には、好都合だった。
すぐに部屋着に着替えて、マドモアゼルを連れて屋根裏に上る。見渡して、絵に描いたような屋根裏だ、と改めて思った。天井が、この家の屋根に合わせたように高いところと低いところがあって、中学生の頃に自ら整理した美術品が壁際に積まれていて、奥にはひとつ上げ下げ窓があり、そこにもう落ちかけた西日が差していた。窓のそばに、祖父が使っていた椅子が置いてある。古すぎるからと椅子を新調した彼が、でも良いものだから捨てるのは勿体ないとも言い、昨年の暮れにここに置いておくように命じた木製のフレームのしっかりとした造りの椅子だ。祖母が自ら何度か張り直していたはずの皮のクッションは、ここ数年張り替えられていなくて草臥れていた。
窓のそばに寄り、椅子には座らずに近くの毛布の上に座った。段々と夜を迎える空を眺めてしばらくして、僕は彼に話しかけた。

「お祖父様、僕のことをどう思いますか」
彼が鼻で笑った気がした。それ以上の返事もなく、そのまま話し続ける。
「いま僕は、あなたが一度は酔狂と呼んだ稼業に身を置いて、どうにも今まで美意識とはかけ離れていたような子と、なんの因果か手を取って歩んでいます」
今もどこかで働いている子のことを思い出した。彼は何故か僕よりもずっと、このユニットのことを愛しているように思えるときがある。僕が指先一つ痛めることを嫌がる間に、Valkyrieのためなら不格好に汗水たらして働くことも厭わない、いつも迂闊で、世界がまだ見付けていない、うつくしい子。同時に頭の中で練習の時の覚束ないステップが思い出されて少し眉を顰めた。
「そんなふうに言うけどねお前、あの子がだいぶお気に入りじゃないか」
「ええ、ええ!宗くんとっても可愛がっているのよ、みかちゃんのこと、」
興奮したように膝の上の彼女が喋る。二人の言葉に居た堪れなくなり、舌打ちをした。二人はそのまま愉快そうに僕の昔の話をする。鬼龍ばかりと遊んでいた頃、女の格好をしたのを初めてみとめた彼に叱られた日、夢ノ咲に入ることを伝えた時のこと、まるで本人が此処にいないかのように話し続けた。それをどこか上の空で聞きながら、すっかり昏くなった空を見た。この頃は日が短くなって、風のある日の外は少し冷えた。あれは今日、上着を持っていただろうか。
「僕はむかしから、自分のやるべきことがはっきりとわかっているつもりでしたけど、どうやら勘違いだったようであることも、最近わかりました。」
「お前は、自分のことを尊大に考えすぎるたちだからな、私に似てしまって、可哀相に」
可哀相だなんて少しも思ってない様子で、彼は、ほほほ、と高らかに笑った。僕の言うこと成すことに噛みつきながら、愛おしそうに目を細めてこちらを見つめる、いつもの彼がそこにはいた。彼はいっとき、「見た目こそこんなじゃなかったが、おまえは若いときの私を見ているようだよ」と僕を撫でては言うのが癖だったことがあった。
「あなたも僕も素直じゃないから、言葉にしなくても、これからも僕たちのことを見守ってくれますか」
「宗くん、まるでお祖父様がお空に行ったように言うのね」
私とは違うのよ、まだ!と笑いながら付け足す。彼女は時々そうやって、どう返せばいいのか人を困らせるような、笑えない冗談を言った。
「いいや、ちゃんとわかってるよ」

すこしの間、沈黙が流れた。近くの道を走り去るバイクの耳障りな音が部屋に響いた。白い月明かりだけが室内をほんのり照らしていた。
「僕たち、お祖父様が馬鹿にできないくらい、遠くへ行ってやりますから」
「それは楽しみだ、決めたからには誰にも文句を言わせないくらい、しっかりやりなさい、今度こそ、いいね」
「はい」
ちょうど影片が帰ってきたのか、大きすぎるスリッパを履いた足が廊下を滑る音が聞こえた気がした。僕は毛布を椅子の上に片付けて、下に降りる前に、月を眺めながらしばらく深呼吸をした。

お師さんのおかあさま、お師さんお茶要らないって、おれが飲んでええって。これ、飲んでええかなあ?え、泣いてへんよ、ちょっとまつげが入ったの、え、クッキーもくれるん、お夕飯前なのにええんかなあ、じゃあその端の黒いやつほしい、うん、焦げててええよ、おれそういうほうが好きなの…