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「一体なんだね、まだ夜中だろう」
咄嗟に見た窓の外は真っ暗だ。同室の紅郎に揺り起こされて、そう返した。寝起きで声がうまく出ず、少し掠れている。
「そうなんだけどよ、おまえのスマホがずっとチカチカ光ってて気になるんだよ」
睨みつけると彼は、多少申し訳無さそうにこちらを見返してベッド脇に置かれたスマホを指差した。サイレントモードにしているため音が出ない代わりに、画面が明滅している。画面を見ると、不在着信が4件、そしてホールハンズのメッセージ通知が今もひっきりなしに入っている。それはどれも友人の弟、つまりみかの同室である朔間凛月からのものだった。
「ねえ」「早く出て」「ちょっと」「こんなときに寝てないでよ」「夜だよ」
メッセージにはこんな内容が20件以上。特に意味も無さそうなひとつひとつを遡り眉をひそめていると、近くで着信音が鳴る。もうひとりの同室、衣更真緒のスマホからのようで、見ると飛び起きた真緒が端末を握り、なんだ!と、あちらも掠れた声で返事をする。
「なんだ凛月かよ、おまえなあこんな時間、オレ寝てるの知ってるだろ…え、斎宮先輩?」
目の前の幼なじみのことも忘れて、騒々しさに眺めていたところに自分の名前が呼ばれた。真緒は戸惑った表情でそのままベッドから立ち上がり、耳に当てていたスマホをこちらへと差し出す。
「あの、これ朔間凛月からなんですけど、影片がなんとかだからとにかく先輩を出せって」

照明がいくつか落とされて少し薄暗い通路を小走りで歩く。寝間着にカーディガンを羽織って、普段ならこんな格好で部屋の外に出るなんて言語道断であったが、気にしている暇はなかった。凛月から言われたのは、外向きの硝子から中庭が見渡せるESビルの廊下だった。人もほとんどおらず、薄暗いことも助けて、いい加減慣れたはずの道順を見失いかける。舌打ちをしながら、目的地へ続く階段をようやく見つけて登った。
階段を上がると、足音に気付いて振り返った凛月と目が合う。その横には、見覚えのある、小さく丸まった背中があった。いつもならすぐに振り返るはずのその顔は、今は伏せられたままだった。
「〇〇、〇〇は、」
「みかりん、来たよ、ね、」
凛月が背中をさすって促すと、その顔が恐る恐るこちらを向いたが、目の焦点が合っていない。まだ状況を把握できていないのか、不思議そうな顔をしながらこちらの肩のあたりと床とを視線が行ったり来たりしていた。不味いな、そう思いため息をついて、持っていた毛布を拡げて彼にかける。一瞬身体が強張ったように見えたが、抵抗はされなかった。
「なにそれ、」
「こうすると安心するから、多分」
「ふうん」
通路の片側が床から天井まで硝子張りの窓になっている廊下の隅で、影片はうわ言を繰り返しながら外を眺めている。窓の向こう側にはESビルの空中庭園があり、手入れされた植物が茂っていた。友人の一人が時折この中にある水場に勝手に入るので、困ったものだと誰かが共有スペースで話していたことを、場違いにも思い出した。
「ベッドでうとうとしてたら泣いてる声が聞こえてさあ、かと思ったら急にフラフラっと出ていっちゃうんだもん」
短く謝辞を伝えると、凛月は毛布のかけられたみかの頭を撫でて、欠伸をしながらのんびりと立ち上がった。
「べつに、みかりんが心配だったから、それだけ。まったく、ま〜くんが居なかったらどうなってたことやら、感謝するならおれだけじゃなくて、ま〜くんにもよろしく」
じゃあおれは先輩の代わりにま〜くんのいる部屋に戻ろうかな、間延びする口調でそう言い残し、彼は階段を降りていった。

床に膝をついたままの彼の横にしゃがみ込み、その顔を軽く覗き込んだ。ずっと泣いていたのか、頬や鼻は涙の跡に濡れていた。ハンカチは持ってこなかったな、と逡巡してから、寝間着の袖でやさしく目元を拭った。
「影片、聞こえる、」
返事は無かったが、その顔が勢いよくこちらを振り向いた。まだ目の焦点は合っていないが、恐る恐る彼の手がこちらに伸びて、顔に触れた。
「あ、」
「うん、僕だよ」
「ああ、」
震える肩を抱きしめて、擦り寄せてくる頭を撫でて、こめかみのあたりに口を寄せた。ここにいるよ、と声をかけると、腕の中の身体から、だんだんと力が抜けてくるのがわかる。しばらく背中や頭をさすってそうしていると、彼はもぞもぞと身体を動かし始めた。
「う、あの、お師さん、」
「うん」
「もう、ちゃんとなりました、大丈夫」
身体を離して顔を見ると、耳の先まで赤くなったみかと目が合う。心底恥ずかしそうな様子で呻いて、毛布で顔の半分を隠してしまった。
「影片、擦らない」
「擦ってへんもん」
まるで子どもの言い訳のように、ほら、擦ってへん、と今度はつんと口を尖らせて毛布を外した。それに笑って、変な方向に曲がって跳ねた前髪を下ろしてやると、彼は黙って床を見つめた。
「おれ、あの子になってたみたい」
連日撮影をしている、新曲に合わせる映像。Valkyrieのライブ内で行う、短い舞台のために作られた曲で、映像もそのシナリオに合わせて衣装、歌詞、演技を構成していた。舞台のあらすじ紹介ともなるように(そしてチケットの購買意欲を誘うように、とコズプロのブレーンを気取るいけ好かない彼が企画会議で言っていた)、その曲と映像のみを先んじて公開する手筈となっており、実際の公演よりもずっと早く、そして短い期間で仕上げることが必要だった。今回初めてみかが中心となって構成を進めることもあり、彼が随分と根を詰めていたのは知っていた。
「目が覚めたときに〇〇が居らんくて、えらい不安でな、ようわからんまま、いつの間に、ここにおった。しかも立てなくて…」
今日何度目かの、宗が演じる役の名前をまた繰り返す。
「うん、零の弟が教えてくれたよ」
「凛月くんが…迷惑かけてもうた」
そうして彼は再び黙る。これまで「そういう人なのだ」と話の種にもなるからと、その性質について本人は楽観視していたが、笑えるだけの話でも無いことに初めて気付いたのだった。
みかは、役に入るときに自分を極力消す癖があるらしい。もちろん、演技をしているのは本人なのだから本当に消せているわけでもないのだが、一度そこに入り込むと戻るのが難しいそうで、新しくドラマや舞台が始まると、プライベートで切り替えがうまくいかず混乱することが多いと本人からも周囲からも聞き及んでいる。Valkyrieとして活動をしているだけの頃にはここまでのことはなかったし、去年は授業と彼のアルバイト以外は四六時中同じ空間に居たのでケアするのはまだ容易だった。だが、国すら跨いでいることが増えた今はそうはいかない。今日も、寝る前に別れたときにはいつもの様子だったから気付くことができなかった。身体に掛けられた毛布を握りしめ気まずそうにしている彼を見て、自分の至らなさにも少し悔しさを覚える。
「きみが、不安なときに一人にさせてすまなかったね、よく頑張ったよ」
「えっ」
驚きの声を上げたみかが、そのままさめざめと泣き出してぎょっとする。ハンカチは無いよ、と告げると、彼は鼻声で、おれある、とポケットからくしゃくしゃになったハンカチを取り出してみせた。果たしてそれが清潔なものなのか、どうしてそんなに縒れたままにしているのか、言いたいことはあったが今はとりあえず呑み込んで、そう、よかった、とだけ返した。
「うん、おれ、実はがんばってるの」
「わかっているよ」
鼻が詰まっていよいよ聴き取りづらいので、仕方無しににそのハンカチで鼻をかませる。少し嫌がりながら、なんか勿体ないなあ、と笑っていた。ハンカチのきれいな部分で顔をすっかり乾かしてやる。そして彼は笑顔をほんの少し消してからこちらを見つめて、祈るように、自分に言い聞かせるように告げた。
「おれ、ちゃんとやり遂げる、絶対、お師さんと一緒の舞台、世界一、誰にも文句ひとつ言わせへん最高のものにするんや」
折りたたんだ足の上で握りしめた拳を、掌で包んだ。冷たくて、強張った自分より少し小さい手。
「うん、期待してる」
緩んだ拳に手を差し入れて、握る。子どもの手遊びのように繋がったその手を、みかも握り返した。強い意志を示していた表情が段々と崩れ、えへへ、と笑いをこぼす。舞台の上では見せないその顔が、今日はやっと見られたような気がして、笑顔を返した。
「さあ、戻ろう。これは仕方ないとはいえ、まだ夜中だ。きちんと睡眠は摂らないとだめだよ」
みかの手を引いて立ち上がらせた。彼がそのまま手を離そうとしないので、繋いだまま星奏館へ戻った。部屋まで送り届けて去ろうとしても手を離さず、俯いて垂れた彼の長い前髪からわずかに覗く肌が赤らんでいる。一度唸った後、彼は宗の手を掴んで頬に引き寄せ小さく呟いた。
「お師さん、やっぱりもう一回抱っこして…」
ぐ、と喉の奥がつまる音がした。みかは、恥じらいからか顔を正面から反らしていて目が合わない。返事の代わりに、薄暗い通路の隅で彼を抱き寄せた。
「えへ、えへへ、お師さんやさしいなあ、大好き」
「こら」
叱る気もなくそんなふうに言う。視界の端に、部屋の壁に掛けられた時計が映る。午前二時半、普段ならとうに寝ている時間に眠くないのはきっと時差ぼけのせいだった。
「お師さんあかん、おれ、ぜんぜん眠くない」
「それはよくないね、実はね、僕も」
「よくないなあ」
眠くないと言ったのに、そのまま暫く深く呼吸を繰り返していると、みかが少しずつ体重を預けてくる。返事が段々にぼやけてきてなお、宗の服を離さないように手に力がこめられて、子どものようだなと思った。
「ほら、ベッドはすぐそこだから、」
「お師さんがおったら、もっとすぐねむれる…一緒寝たらだめ?」
そこにあるベッドにみかの同室の姿はない。そういえば、真緒のところで寝ると言っていたことを思い出す。冗談でなく本当に向かったようだった。
いま目の前にいる彼を甘やかしたい気持ちと外聞を天秤にかけて、逡巡する。そう、寝るだけだ。うん、たまには、仕方ない。
「ここ、鍵はかけられるよね」
「なに、お師さん、えっち!」
「人聞きが悪いことを言うな!さっさと布団を被りたまえ!」

翌朝みかの友人ふたりが部屋を訪れ、現れた宗を大騒ぎで問い詰めたので、それを嗅ぎつけた隣室の一人が「事件ですか火事ですかそれとも日々樹渉ですか!」と闖入しややこしいことになったのは、しばらく星奏館の語り草となった。