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部屋の扉を開けた彼女は、脇目も振らずまっすぐ居間に入る。食卓の前でぼうと立ち、何かを考えるような表情でどこか遠くを見つめている。しばらくそうしていたと思うと、はっと顔を上げるやいなや、肩に掛けた鞄から本を取り出して、ばたばたと書斎へ駆け込んだ。
アゼムは、部屋の隅からその一部始終を見ていた。椅子の上で膝を立てた行儀の悪い格好で本を読みながら、ヴェーネスに「おかえりなさい」と声をかけたのにも気付かれずに、そこにいたのである。彼女とともに帰ってきたアルゴスが近づいて来て、主の代わりに返事をした。アゼムはアルゴスを撫でて、本をそのまま読み進めた。
日が傾いてきて、部屋がわずかに暗くなる。本を閉じて、台所で湯を沸かした。大きなポットに紅茶を淹れて、甘い菓子を少し取って、皿に盛って、小さな盆に載せた。
書斎の扉の中を覗くと、ヴェーネスはやはり、暗いままの部屋で机に齧りついていた。そっと近付いて、彼女の手元にランプを灯す。盆もその横へ置いた。
ヴェーネスが目を瞠ってこちらを向く。その驚いた顔に、ふたたび「おかえりなさい」と笑いかけた。
「……ありがとうございます、戻りました」
そこでやっとすべてを悟ったように、ヴェーネスは苦笑いをする。アゼムは湯気の立ち上るカップを手渡しつつ、「まとまりそうですか」と訊いた。
「もう少し……ただ、すべてが繋がるにはまだ時間がかかりそうです。資料が要りますね、」
そう言った彼女は手元の文章を見つめると、再び自分だけの世界に沈んでいった。
「また後で」
彼女の耳に入るか入らないかの声で呟いて、部屋を後にした。アゼムはその足でまた台所に向かい、食事の準備を進める。きっと今の彼女には、腹にたまる温かい食事が要る。そのうち一段落した彼女を食卓に引っ張り出し、待ち惚けていた弟子をなおざりにしたことを交渉材料に、彼女が我を忘れるほどに取り組んでいることについて、腹を満たす間にたっぷり語ってもらうのだ。